図書館のなかのジュリー
ビギナーJULIEファンの“はるはる”が、沢田研二様に関する(図書館で借りた)書籍を、ジュリーに著しく偏った観点で語る読書メモです
(一般的な書評とは異なることをご了承ください)
ジュリーファンになって様々な本や雑誌の記事を読んでいて、毎度謎だったのが「内田裕也の存在感」でした。とにかくいろんな場面で登場するし、超大物とやたらと親しいし。モノを知らない私は「樹木希林さんの夫で、いつも『ロッケンロール!』と言ってるおじいちゃんは、そんなすごい人だったの?」と驚きながら、ほんと不思議に思ってたんですよね。
タイガースを見出した凄い人であるということは理解できました。でも、ビッグな人との交流は謎すぎる。だって相当にビッグ。ビッグ! いや、ビッグすぎ!!
この本にも登場しますよ、ジョン・レノン、オノ・ヨーコ、ミック・ジャガー……。エアロスミスが初来日した時に裕也さんがメンバーの案内役をした理由もすごい。以前ニューヨークで“たまたま”会っていたからだそうです…。エアロスミスに“たまたま”会える人って……どんだけすごいの!
この書籍は、裕也さんがそんな著名人たちとの交流を通して自身の人生を綴るもの。前書きには、こう記されています。
オレはプロデューサーとして多くの仕事をしてきた。(中略)しかし、人生で何かコトを起こそうというとき、たった1人では何もできない。(中略)理解者、協力者がいて初めて、大きなムーブメントを起こすことができる。
ふと振り返ってみれば、オレの人生のいくつものエポックには、必ずそんな人物がそばにいて、力を貸してくれた。
オレが出会い、付き合ってきた偉人たちを紹介しながら、我が人生、我が道を綴ってみたい。
「理解者・協力者が力を貸してくれた」のは、ひとえに裕也さんのお人柄なのでしょうね。きっと自然に他者に尽くせる人なんだろうな(想像しかできませんが)。それはやろうと思ってやってないのでしょうし、持って生まれた性質なんだろうし、あまりにも自然にやってるから本人に自覚もないんだろうし、計算がないから信頼もされて人から慕われるのだろうし。
ネットで拾い読みした、エディ藩さんと近田春夫さんの対談に次の言葉が載っていて、納得しました。どちらもエディ藩さんの発言です。
裕也さんも苦労して、頑張って、偉いよ。やることちゃんとやるじゃん。そういうところで尊敬できるんだよ。普通だったら人に馬鹿にされるようなことも、それがどうしたみたいな。なんでもやり通す、とことん 。
裕也さんもデイヴ(平尾)もそうだけど、花神みたいな人だったね。自分は才能があるんだけど、人を作ってあげる、花咲か爺だね、要するに。人を世に出してあげる。
そして私がこの書籍を読んでびっくりしたのは、サラッと書いてあるこの文章でした。
(勝新太郎さんの葬儀で)オレは『奥村家(勝さんの本名)』の案内板を手に道路に立った
普通はスタッフがやる仕事を、何でもないことのように有名人の裕也さん本人がやっている。これも裕也さんの人となりを表す、小さいけれど大事なエピソードだと思うのです。
見てみたい。ジュリーの年賀状
さてさて、「♪ぼかぁ好きだよ〜 湯屋ちゃああ〜ん」と歌うジュリーを語る分量は7ページ弱。大半を占める“タイガースを見出したオレ”と、“事務所にハブられたオレ”の話は割愛しますが、初心者の私が「知らなかったー!」となった話も多かったです。それがこれ。
- ジュリーの京都の実家に招かれ、ご両親がすき焼きでもてなしてくれた(お父さんがオレを「先生」と呼んでくれたのがうれしかった)
- ファンクラブのハワイツアーには必ず招待してくれた
- 年賀状は1年たりとも欠かさず書き送ってくれる
私、今までハワイやグアムのツアーって完全にファンサービスイベントだ思っていました。「憧れのジュリー様と至近距離で会えて、ライブもあって…なんて夢のようなイベントをファンのために…さすがジュリー♡」とドリーマーになっていましたよ! これを読んで「関係者の接待、スタッフの慰労も兼ねていたのか。そりゃそうだよね」と正気に戻れてよかった…。
すごいと思ったのが年賀状。毎年いかに年賀状をフェードアウトするかを考えている私のような人間は、これを読んで心が痛くなるけど(笑)。ジュリーは毎年何枚年賀状書くのかな…? 直筆コメントは絶対つけているっぽいし、宛て名は1枚1枚手書きしているんだろうなと想像してニヤニヤしてしまいます。
どんな年賀状なのでしょうかねー? 干支やら羽子板のイラストやらつけるのかな?(笑) ちょっと見てみたいぞ。
(追記)後日先輩ファン様から情報をいただきました。ある方宛ての年賀状で「澤田研二」の手書き署名と、手書きコメント付きということが確認できました。
(2021年1月追記↓こんなツイートを見かけました)
ピーのライブで、
事務所に来てた年賀状の中に沢田研二からのがあった。
全て手書き、宛名も手書きで凄いよね‼️名前沢田研二も手書き‼️😃僕なんか全部印刷なのに💦牛の絵のはんこがあった。
戦メリやってたら人生変わってた?
裕也さんは、俳優ジュリーの企画にも関わっていたのですね(またまた、どんだけすごい人なの…)。
まずは舞台「滝の白糸」。裕也さんの本では「最初に唐十郎さんがジュリーにオファーをしたけれど、『渡辺プロが取り次いでくれない』といって裕也さんに泣きついてきた。そのため、裕也さんがジュリーに直接連絡を取って交渉した結果、ジュリーが『面白いですね』と興味を示した」となっています。
でもこれ別の読み物では「ナベプロのスタッフが積極的に企画に乗った」になってるんですよね。さらに、ジュリー本人が語った出演交渉時の話は、また違うニュアンスだったような気がするけど違ったかなぁ…?(その記事が探せないので、残念ながら確かめられません。知っている方がいらっしゃいましたら、教えてください!)。
もうひとつは「戦メリ」ですね。撮影時期が1982年のツアーと被ったため、大島渚監督直々のオファーを断った話は有名ですが、知らなかったのはこの後。
3年くらい前、「アレやってたらまた人生変わってたな」と蒸し返したら、沢田は「それも人生ですよ」だって。かなわねぇなと思ったね。
……………( ゚д゚)……………
キャー! キャー! キャー! ジュリーーーーー!!
もうね、これを読んで、初めて樹木希林さんの真似して「ジュリーーーー!!」と身悶えしたくなりました(いや、実際にやった←笑)。
かっこいいね! 男だね! いや漢だね!! ああ、なんと素敵なのかしら、ジュリー様…。
ちょっとした妄言
えーとですね、これから記すことはあくまでジュリー初心者の知識の浅い偏った妄言ですので、笑ってお読み飛ばしください。
「それも人生ですよ」という言葉から思い至ったことですが、やせ我慢シリーズの歌詞の中のジュリーならば、この場面で「人生はケセラセラですよ」って言いそうな気がします(しかもカタカナのまま)。
ケセラセラの和訳はご存じ「なるようになるさ」ですが、これって、運を天や他人にまかせている人が言いそうなセリフ。やせ我慢シリーズの主人公って、はっきり言って“無責任男”でしょ? 「ふざけて困らせちゃったけど引きとめない」とか「おまえはいい女だったけどあばよ」とか「女を張り倒して放置したままボギーを気取る」とか、女性におんぶにだっこの無責任男。もうね、「アンタ2人の関係で何か努力した? したなら言ってみな!」って小一時間ガミガミ説教かましてやりたいタイプの男たち。この無責任男たちは全員「人生はケセラセラ」って言いそうに思えるんですよね。
対するジュリーの「それも人生」は、一見「なるようになるさ」と同意に思えるけれど、その実、覚悟したうえでその道を選択して自分で責任取っている人の言葉に思えます。上京時や、タイガース解散、ソロデビューの時のエピソードも、「なるようになるさ」的だけれど、私はやっぱりこれにもジュリーの覚悟を感じるのですよね。
一旦そうと決めたからには責任は自分が取るし、自分で自分に落とし前をつける、という感じかな。やせ我慢シリーズの人生が受動的なら、ジュリーの人生は能動的。なーんてね、贔屓目がそう思わせるだけかもしれませんが。
以上、ジュリーの漢気エピソードに触発された、飽くまでもジュリー初心者の浅くてぬるい妄言でした。忘れてください…。
あいつに言われたらオレもイヤとは言えなかった
はい、話を裕也さんの書籍に戻しましょう。
俳優・ジュリーに関する逸話はまだありました。映画「ときめきに死す」のこと。わたし、これまったく知りませんでした! まだ映画自体を観ていないから、完全ノーマークだったー。
Wikipediaには、“当初この作品の映画化権を持っていたのは、内田だった。アル・パチーノ主演で、内田が医師の役をやる予定だったという。しかし、沢田からの懇願によって映画化権を譲ることになった”と書かれていますが、裕也さんの書籍はもう少し詳しい。
裕也さんがこの話を東宝に持って行ったら、社長(松岡修造さんのご尊父)が「主演がミック・ジャガーやったら、東宝が全額出しましょう」と言ったそうです。
え?ミック・ジャガー?? そんなロックな映画なの、これ?(←観てないから何も言えない)
結局裕也さんはジュリーに懇願されて映画化を譲りますが、ジュリーは“威儀を正して「丸山さん*1の“ときめきに死す”を僕に譲ってくれませんか」と真剣な眼差しで訴えた”そうです。そして裕也さんも「あいつに言われたら、オレもイヤとは言えなかった」と。
あああ、ジュリーがそんなにやりたかった、思い入れた映画だなんて知らなかったー(泣)。そして裕也さんとのそんな義理人情物語があったのももちろん知らなかったー! これは今すぐ観なくてはあかんじゃないですか! GEOのレンタルサーチだ、急ぐー!
ジュリーがジャニーズアイドルになっていたら…
まだまだあります。ジャニー喜多川さんのところには、こんな話。
タイガースを連れてきたときには、「どこから見つけてきたのよ」と悔しそうな顔を見せた。沢田研二を見て「やられた」と思ったんだろう。
これは…(笑)。絶世の美少年だった10代のジュリーがもしジャニーズ事務所に入っていたらどうなっていたんでしょうねー。想像したらかなり面白い。王子様として超アイドル路線を突っ走るのは当然として……あ、ダンス…。
「おくりびと」の滝田洋二郎監督も裕也さんがお世話した人物なんですね。アカデミー賞の中継時に「沢田研二のコンサートにオレの私物を使いたいというので、スタッフが家に来ていた」って書かれていたけれど、コレ、何ですか??(2008年1月のお話のようです)。
さらに文壇とも交流がある…って、どこまでスゴイの?裕也さん。
五木寛之さんは「華があって筆力もあって、本当に“文学界の沢田研二”のような人」だそうです。確かに作家さんとは思えないイケメンですし。京都の小料理屋さんでなぜかジュリーと3人で会食したことがあるそうですよ。
ピジョンは平和のシンボル!
別な書籍ですが、久世光彦さんの著書「ひと恋しくて」(中央公論社,1998)に、こんな一節がありました。
いまは昔、中野サンプラザのこの人(注・ジュリー)のステージに内田裕也が飛び入りで上がり、「トラブル」をデュエットしたことがあった。私はいままで、こんなに色っぽく、危険できれいな、男たちのデュエットを知らない。(中略)裕也の目は、苦しそうに熱かった。ジュリーの目は、石で作った義眼みたいに冷たかった。裕也にとっても、この人は〈魔少年〉なのだと私は思った。
でも裕也さんサイドからジュリーとの共演を語ると(全然違う時代の共演の話ですが)、こんな風になります↓
2009年2月、東京と神戸で「きめてやる今夜」と題したジョイントコンサートを開いた。気持ちよかったねえ。オレの歌を聴いて「意外と声が出てるぞ」と沢田も焦ったんじゃないか。
この時の裕也さんの目は苦しくなかったんでしょうな、この感じだと(笑)。
さて最後に、以前読んだ樹木希林さんの著書にあった大好きすぎるエピソードを引用して終わりとしますね。
(スイスの有名レストランに家族3人で行き、妻子の反対を押し切って“その店の一番いい料理”だった鳩料理を注文した時の話)
実際、鳩が詰め物をして出てきたら、「これかあ」。それでしばらくたって、「これ食え」と言うから、「私食べないって言ったでしょう」、娘も「だから私も食べないって言ったでしょう」と言ったら、コックさんをよんで、「平和は食べられない」(笑)。「ピジョンは平和だから平和のシンボルは食べられない、どうぞそちらで」と(笑)。
(「用の美、魯山人」2003年11月)
ほんとにもう。湯屋ちゃん、大好き♡
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— はるはる (@haruandwanko) August 18, 2020
内田裕也「ありがとうございます」/ジュリーの恩人は花咲か爺さんでした - はるはるの“ジュリー初心者”日記https://t.co/W3p31ZedHl